私のヒーロー
先日、とあるプロ野球選手が一線から退く記者会見が開かれました。
スーパースター、私にとってはその言葉だけでは表しきれないほど大切な方です。
まだ小学生くらいの頃、それまで野球にほとんど興味の無かった私。
そんな私に、鮮烈な光を見せた方がいました。
腕を伸ばして細身のバットを立て、袖を引っ張り一回転。51番を背負い、打席で構えるその姿のカッコ良さに私は釘づけとなったのでしょう。あんまりにも昔から好きだったため、キッカケがどうだったかなんてもう覚えていません。
それでも、マリナーズのユニフォームに身を包み、打ってはヒットを量産、走っては次々と盗塁を決め、ライトからは返球でランナーを刺す。その数々の姿はどれも鮮烈に覚えています。内野安打の時に見せる全力疾走が好きでしたし、たまに見せる狙いすましたかのようなホームランもまた魅力的でしてね。
2004年は200安打目をホームランで決めてましたね。あの時はNHKの7時のニュースでその映像を見たことを覚えています。
メジャーリーグの試合は基本的に朝方から昼間にかけて行われるため、小学生の私はなかなかリアルタイムで試合を見ることができませんでした。
その分、土日や祝日は必ず新聞のテレビ欄で中継の有無を確認したものです。メジャーリーグの試合は基本的にBS1、たまにNHK総合でも放送がありました。西部地区開催の試合はだいたい11時から中継があって、日によっては最初の5分間くらいのBSニュースにイライラしたものです。アウェーだと、1番バッターの打席が見られない時もありましたから。
当たり前のことですけど、休みなのに中継が無い日もあります。そんな日は、どうして中継が無いのかと憤ったものです。今からしてみたらかわいらしい怒りですね。
筆箱は小学2年生の途中からずっとマリナーズのものを愛用、代替わりもありましたが、今でもその2代目を使っています。外で被っていた帽子もマリナーズ。毎朝学校に行く前には玄関にある帽子に見送られながら登校したのでした。
あの方が残したものは、数字でもとてつもないものがいくつもありますが、記録だけの方ではありません。中には野球ファンのみならず国民的な記憶になっているものも残しました。記録にも記憶にも残るとはまさにこのことでしょう。
WBCの決勝打やMLBオールスターでのランニングホームラン、壁を駆け上ってのキャッチ…たくさんの記憶の中で、私が強く覚えているのは第1回のWBCでの先頭打者ホームランでしょうか。あの試合こそ負けていますが、アメリカラウンドでの最初の試合で、まさに勢いをつけるようなホームランでした。
リアルタイムで見たものとしては、2004年の安打記録更新の試合でしょうか。並んだ瞬間と新記録を作った瞬間も覚えているのですが、それ以上にその日印象に残ったのが、3本目にヒットを打った後に代走を送られたシーンなんですよね。代走を送られるというイメージが一切なかったので、ビックリでした。塁上からベンチに下がる時にヘルメットを掲げて歓声に応えたシーンと、代走として登場したブルームクイスト選手まで覚えています。
子供の頃って、何故か不思議な場面を覚えているんですよね。なんでそれなのって記憶。
当時たくさん試合を見ていた関係で、選手の名前もたくさん覚えました。
今でもDeNAでプレイしているロペス選手は巨人にくると知って驚きましたし、オリックスに在籍したベタンコート選手は、ショートで下位を打っていたあの選手に中軸としての期待?と、マリナーズ時代のイメージから活躍を不安視。
外野手で主に上位を打っていたウィン選手、セカンドだったブーン選手、フランチャイズプレイヤーとして愛されたエドガー・マルティネス選手、そのスキンヘッドと頼れる打撃が印象的なイバニェス選手、三振かホームランだったセクソン選手、いつかのランニングホームランをよく覚えているベルトレイ選手…先ほどのブルームクイスト選手も合わせて、バッターばっかりですね。
ピッチャーで一番印象に残っているのはヘルナンデス選手。今回日本で登板している姿を見て、とても懐かしくなりました。調べてみるとここ数年は調子を落としているらしく、まだまだ頑張って欲しいです。
昔を振り返る中で名前を見て思い出したのは、クローザーだったプッツ選手。あの頃はとにかくマリナーズが勝てなかったイメージで、私の中で一番頼れるリリーフピッチャーでした。クローザーを任されているので当たり前っちゃ当たり前ですが。
小学生時代はたくさん見ていたメジャーリーグの試合ですが、中学生になって部活も始めると、次第に見る機会が減っていきました。休みで家にいることも減りますからね。
高校生になるとさらに試合を見る機会は減り、メジャーリーグの試合を見ることはほとんど無くなってしまいました。
それでもやっぱり私の中で応援する心は変わっていませんでしたし、ヤンキースやマーリンズ移籍からはチームというより個人を応援するようになっていきました。
どれだけ年を重ねてもパフォーマンスを維持し続けるその姿。かつて読んだ彼の本に書かれていた「継続は力なり」という言葉に嘘はなかったんだなと感じました。
旺文社さんから出版されていた本です。スポーツ選手にスポットを当てたシリーズで、1は小学校の図書室で読みました。2は多分まだ実家にあると思います。
そんな彼も、今後100年は覆ることのなさそうな記録を作った彼でさえ、自らの現役生活に終止符を打つ時がやってきました。
昨年のシーズン前半、2018年シーズンはもう選手として出場しないと決まった時から、今年の東京での2試合が花道になる。それはわかっていたつもりでした。
この東京での2試合、練習試合も含めればもう少し増えますが、毎試合テレビで中継がありました。きっとプレーする姿を見るのはこれが最後になる。そうわかっていたはずなんです。
都合上、現地で観戦することはできなくても、テレビではその雄姿を目に焼き付けたい、そう思っていたはずなのですが、いざ試合の日になってみると、テレビをつける気がしません。
少し上で触れたヘルナンデス選手が登板した試合も、少し見ただけですぐに消してしまいました。最終的に、私はその数試合、ほとんど彼のプレーを見ることなく終えてしまったのです。
そして私のスマホに通知される、彼が一線を退くとの速報。その後に開かれた記者会見についても、いくつか内容は文章のニュースで見ましたが、映像では見ることができていません。
会見の翌朝、気付いたんです。
私、イチロー選手が選手じゃなくなることを、まだ受け止められていないんだなって。
その年齢になっても現役を最後まであきらめず、悔いなどあろうはずがないとまで本人が言っているのに、私はまだ受け止め切れていないんです。
多分、私のどこかでこれからもあの姿を見られることを期待していて、最後の姿を見るのが怖かった。自分の中で区切りをつけてしまうのが怖かった。だから中継を見られなかったんだろうなって思います。
あの人だって人間なんです。2009年、WBCに出場したシーズン中に胃潰瘍で離脱したこともありますし、そんなことはよくわかっていたはずなのに。それなのに私は…。
そのあたりのことが自分の中で整理された時点で、初めて喪失感に襲われました。これから試合であのルーティンを見ることはできないし、レーザービームもあれが最後だった。
速報を見た時は不思議と冷めていた心が自然に熱を持ち始めました。その熱は今も絶えることなく、この文章を書いている最中にも、幾度となくぽろぽろと涙がこぼれました。本当に、涙脆くなったなぁ…。
こうして色々と書いてきたわけですが、ここに及んで、私はこの文章をどう締めくくりたいのかわかりません。
「お疲れ様でした」とはまだ心の底から出てきませんし、この言葉を私が贈ることにおこがましさすら感じるのです。
「ありがとう」は、きっと書いても書いても足りることはありません。どうやってこの気持ちを重ねればいいのかもわかりません。
「まだ頑張って欲しい」、論外です。私のただの我儘ですから。むしろこれまでたくさんの思い出をくれたことに対する冒涜にすら思えます。
かれこれ17~18年ほど野球を追っているわけですが、私はこの2年ほどでその入り口を失いました。
今回の件の前、昨年の秋には選手として2000年代の強かった阪神の中心だった金本監督が退き、さらに遡って年明けには私が2003年に阪神を応援し始めるキッカケとなった星野仙一監督が亡くなりました。
星野さんの追悼試合となった甲子園でのオープン戦は実際に甲子園に行き、お花を供え、甲子園で流れた映像を見て涙を流しました。
今年、情報こそ追っていますが、例年ほどの熱量を野球に対して持つことができていません。失った3つがそうさせているのかなと、今は思っています。
今後、心の整理がついた時にイチローさんの会見を改めて見たいと思います。
自分の中で偶像とするのではなく、人間としてのその言葉を受け止めたい。
それでも、これはずっと変わらないでしょう。
今も昔も、きっと今後も、私の筆箱はマリナーズのまま。
以上、私が最も愛するヒーローのお話でした。